一年前

2006年3月20日 時事ニュース
今日は福岡西方沖地震から丸1年。
テレビでずっと、あの日のことやその後の防災のことや
玄海島のことをずっと放送している。
私は福岡といっても北九州市に住んでいるので、
被害は全然無かったけど、あの日のことは
絶対忘れられない。

前日、岡山の専門学校に通っていた長女の
卒業式だったので、引越しの手伝いも兼ねて
数日前から岡山に行っていた。
荷造りも終わり、後は運送屋さんを待つだけで、
娘といっしょに「いいとも増刊号」を見ていた。
そうしたら、アパートの2階の,荷物も無くなって
がら〜んとした部屋が、ユラ〜ユラ〜と揺れて、
地震に慣れていない私達には、その程度でも
結構怖かった。
後から、そこは震度1って聞いたけど、
あれだけしっかり揺れを感じたので、2はあったと
思うんだよね。

「やっぱ地震って怖いね〜」なあんて言いながら、
震源地はどこかな?関西の方かなあって思っていた。
しばらくしたら、テレビにピンポンというチャイムと共に、
地震速報のテロップが出て…
その後の、地域名が出た時の衝撃は忘れられない。

正確には覚えてないけど、「福岡地方で震度6…」
みたいに出ていたのかな。
今こうやって、あの時のことを思い出しながら書いてても
ショックが甦って涙が出て来る。
最初に浮かんだのはやっぱり次女のことで、そして
主人かな(苦笑)

「福岡だって!!!どうしよう、どうしよう…」
完璧にパニクッてた。
福岡って、それまで本当に地震の少ない地域で、
日本はどこで地震が起きてもおかしくないって
いくら言われてても、やっぱり福岡は無いだろうって
いう気持ちがあったんだよね。
だから覚悟ってものが全然無かったから、余計に
ショックだったと思う。

その後で、もう少し詳しめに震源地の地域が出て、
うちの方は大丈夫って分かって、少しほっとしたけど
それでも携帯が繋がるまでは落ち着かなかった。
でもどれくらいして繋がったか覚えてないんだよね。
って言うより、長女は大学病院の付属の専門学校に
通っていて、アパートはそのすぐそばだったので、
病院の公衆電話まで掛けに行かせたんだよね。
最初に繋がったのがその公衆電話だったのか、
携帯だったのか覚えてないんだよね。
はっきり覚えているのは携帯で聞いた娘の声かな。
娘の無事な声がどれほど嬉しかったか。

震源地から離れていると分かってからもそうだから、
震源地に近い地区に大事な人がいたらどんなだったか…
何より、被災地に実際いた人の恐怖はそれどころでは
ないだろうし。
もちろんそれは福岡の地震に限ったことじゃあないし、
地震だけのことでもないよね。

実際、兵庫のJRの事故の時、たまたま主人が兵庫に
出張で行ってて、テレビであの映像を見て、兵庫って
分かった時は不安になったもの。
JRを利用しているはずは無いと思っても、やっぱり
声を聞くまでは不安だったし。
いろんなことある毎に、こんな思いを抱いてしまうよね。

でも私自身のことに限って言えば、地元にいた方が
数倍楽だったと思う。
帰っていろいろ聞いたら、みんな、今まで経験したことが
無いほどの揺れではあったらしいけど、被害があるほどでは
無かったわけだからね。
46年生きてきて、地元に居なかったのなんてほんの
わずかなのに、よりにもよってそんな時にあの地震だものね。
あんな思いをするのはもうたくさんですわ。

夕方岡山駅に行ったら、運良く福岡までの新幹線が
復旧したところで、ラッキーなことに小倉まで座って
帰れたんだよね。
当然ダイヤは乱れに乱れていて、普及したばかりの新幹線の
指定席券なんて無かったけど、当然自由の方は長蛇の列。
なので指定席車両から乗ったら、開いてる席が数席あったので
車掌さんに尋ねたら、誰も来なかったら座っていいって。
娘と離れてはいたけど二人とも座れたし、広島からは一緒に
なれたし、広島以降は数席開いてたくらいだった。
きっと自由車両はぎゅうぎゅうだったと思うんだよね。
思うけど、ああいう時って全席自由にした方がいいかもね。

こういうこともあるってこと、知ってるといいかなってことで
ちょっと書いてみましたわ。
もちろん指定席料金は払いましたよん。

小倉についたら、在来線の方はまだ全線ストップ状態
だったので、主人と次女に迎えに来てもらい無事帰宅。
新幹線の方が止まっていたら帰れなかったことを考えると、
本当にラッキーだった。
一年前の今日って日は、きっと一生忘れられないだろうな。

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